2014年4月15日火曜日

近況、茶の湯と麻雀とドイツ

最近、茶の湯と麻雀に狂っております。
狂っているというよりは宇宙を見ています。こういう言い方をすると狂っているように思われるのだけど、何というか当たり前ながら二つとも奥深く、それらに影響されたわけではなく、去年1年間にその時点での人生の最高の幸福と最低の不幸があり、それによって元々「そろそろティーンエイジャーから培ってきたスタイルも限界だろ。アップデートしたい」という想いがさらに強く、まあ色々と悩んでいました。
そこに来て、三年前ほど前から興味を持っていた茶道(茶の湯と呼びたいのだけど)を色々なものを共有出来る師匠を見つけて、習い始めました。
茶の湯は北大路魯山人の「茶道とは美的趣味の総合大学であり、人生哲学である。」名言が正にそれで、今まで僕が刺激を受けたおおよそ全ての文化的な活動を全て包括できるだけに収まらず、僕が人生を通してやり続けたい「他者とのコミュニケーション」を先鋭化させた思想、思考に僕は魅了されているのです。
ああ、俺がやりたい事の、やってきた事の全てを反映させれるコンテンツがあるんだ!という希望は、スタイルに迷い、悩んでいた人間には救い以外なにものでもなかったのです。
このスタイルの転換を無理にしようとしているわけでもありません。何故か心の中の分かり易く棘棘したものが、自然と枯れて来ているのをすんなりと受け入れれる様になっています。かといって激情や憤りが無くなった訳でも勿論無く、人生80年を闘い抜く為の第二段階に入ったという方が的確で、その上で僕の中で強い強固な武器になるのは伝統的な、そしてその中に革命的本質を持っている茶の湯なのです。
そうなってくると器や生活用品、日常の中に溢れる「物」への好みも劇的に変わってきていて、僕の好みというのは元来ポップで刺激的なものを愛で続けていたのが、青磁や磁器ばかりでなく、さらにザラッとした器や何気なくそこにあるモサい物を愛でる気持ちがドンドン出てきていて、日々ワクワクとしています。
 もう一つ麻雀に耽溺しています。
麻雀は元々好きで、友人諸兄と打ってはいましたが、ここのところバイト先の麻雀の猛者達と打つ機会が多く、その中で如何に自分の打ち方が子供じみた、幼い打ち方だったかと思うと、それは前述の主体にも繋がってきて、勿論、同じ局や配牌はなく、その中で色々とリンクし、僕は宇宙を見ています。娯楽や博打としての側面だけでなく、麻雀を通して見えてくる己の未熟さや足りなさが毎回毎に自覚され、目前に晒され毎日毎夜打ち続けて何かを掴みたいなと思っています。

ここまで書いてきて、変わっただの過激ではなくなったのではないかという自己の問答がないのです。語弊がある言い方ですが、今は自己の研鑽、鍛錬にしか興味が湧きません。その鍛錬の中でも他者を必要とし続ける茶の湯と麻雀を耽溺している僕はやはり病的な寂しがり屋なのだと思うとやはり僕は寂しさに狂っているのだなと。

余談ながら、6月初旬から1ヵ月超、ドイツへ行く事になり、1人で行くのですが、その1人で全く知らない環境に飛び込む出来事もここ数年殆ど無く、それがまた楽しみと思えるのだから面白い。新たな刺激と感覚に酔い痴れたいのです。