2015年4月19日日曜日

「楽しそう」という事について

「楽しそう」という事について、考えてみた。いや、久しぶりだ。何か、こう物事を真面目に考えようとするのは。
これも女遊びをしていなくて、営業マンとしてシコシコ働き始めて(あの俺が!)いるから何かこう諸々溜まっているのだろうな。

これを書き出し始めたきっかけは渋家のゆうき君のサイトにあったステートメントと、写真群を観てたからなのだけど、色々と思い出したわけだ。別に懐古趣味じゃあないけども。
いや、マジで文章力が落ちている。短文140文字程度ばかりを書き慣れて、本を読まなくなると人は馬鹿になります。
「楽しそう」と思わせるもの、事象、団体、個人、グループ、集団、書物、まあ何でもいいけれど、やはり僕はこれが一等偉いと想うわけです。僕はたぶんこの「楽しそう」というものと斬り合ってきて、尚且つ人生全てを捧げていると発言しても、誰にも笑われないくらいには生きてきた自負はある。
苦労、努力、勤勉さ、真面目さというこれまでの美辞麗句、賞賛の言葉であまりに多くの人が傷つき、死んでいると僕は思うので、その対極は楽しみ続ける事だけだし、楽しみたいという欲望が薄い人間はこの現代社会日本では生きていけないだろう。死んで行くしか道がない。
「楽しそう」と想う力こそが生きる活力ではないか。また、その「楽しそう」という想いから「やってみたい」「なりたい」という所謂ワナビーの状況が訪れ(ここの次元だけで立ち止待っている奴はクソだが)その後に「やってみた」「なれた」という段階が来て、それを不満足というスパイスを振り掛ければ永遠、人生を通して上昇的に螺旋構造が出来て行くと僕は考えている。
しかし、この「楽しそう」を出せるものは世間からのお墨付きを得ていない限りは常に周りから羨望よりも嫉妬、憎悪、嫌悪、やっかみというネガティブさをポジティブな捉え方と同量生み出してしまう。
僕も一時期たぶん、いや、たぶんじゃなく確実に「楽しそう」を死ぬほど露出させて、周りにブチまけまくっていたのだけど、何分分かり易い結果や実績、資本が無いから同量どころか、ネガティブな捉え方をする奴等が山ほどいたわけです。ただ、有り難い事に現代はネットがあるので遠くの未だ会った事のない人間に届けれるわけだから直接的にネガティブを感じられない(いや、ここまで書いているけど段々筆のノリが悪くなってきた)周りにはポジティブな捉え方の人たちが当たり前だけど集ってくる。そこで満足した奴等はもう既に死んでるからね。そこで常に外海に出かけ、外征を積極的に行使し続けなければならない。これを忘れると本当にロクでもない。
遠くの人々に「楽しそう」を届け易く、しかも安価で出来る状況はやはり僕達デジタルネイティブ第一世代の大きな武器に変わりは無かった(何故過去形かと言うと今の若者達を僕は知らない)
これを使わずにやっている同世代はやはり馬鹿だと僕は今でも思っている。
「楽しそう」をまずは生み出す事から、そして、僕のような人間は生み出し続ける事から逃げては駄目だし、それをたぶんこれから死ぬまでやっていくだろう。
僕は今客観的に見て「楽しそう」を量産、配信出来ていない。それはやはり疲れてしまったという部分と、武器やテクニックを向上させないといけないと駄目だなと想ったからで、だからと言って僕は絶対に努力なんてしないけども、また「それ」が来る事だけは分かっているので、僕は今必死に刀を研いでいざ鎌倉という号令が地獄の奥底から出るのを待っている。

ここまで書いたけど、途中で完全に飽きた。いや、ここまで文章の構成力が落ちたかと我ながら悲しくなった。

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