2012年10月19日金曜日

宗教という事

 宗教の原初的体験は、僕にとって家族が入信していた新興宗教だ。神道と仏教、そしてシャーマニズムを混ぜた様な大変怪しい宗教で、その割には出雲にある日御碕神社とも関係が深く、名前も奈良日御碕神社という名称だった。それが宗教団体の正式名称であったかどうかは今となっては分からないが、とにかく、一通り神式、仏式の礼拝方法、玉串拝礼程度は覚えている。
 一等怪しいのはシャーマンの存在で、老婆が教祖的な存在だったのだが、その老婆の身体を借りて神の声を伝え、自営業の営業や人事、家族の進退(結婚相手や進学など)まで全て取り決める位の熱の上げようであり、20数年に渡ってその宗教団体に御布施した額は優に億を超えているとの事だ。
 普通の人ならそんな怪しい宗教に金も人生も賭けるのは常軌を逸していると映るだろうし、そういう家庭で育った僕自身常軌を逸していると物心付く頃には思っていた。けれども、幼少の頃は熱心に般若心経や御題目を熱心にあげ、神仏の存在を強烈に信じていた敬虔な幼児であった事は間違いない。その怪しい宗教に入れ揚げる事を馬鹿に出来ない文脈というものもあるのだ。詳しくは分からないのだが朝鮮人はイタコやシャーマニズムな土着的民間宗教を信仰しており、在日朝鮮人でもそれは変わらず、戦後も結構在日のコミュニティーではその様なイタコのおばあさんが駆け込み寺のような機能を果たしていたと色々な在日を題材にした小説や本、そして、親戚の話で聞いた事がある。なので、傍から見れば奇怪極まりない神の声を代弁するような宗教にも没入する下地は既にあったのである。これが僕の宗教的素養、体験である。
 僕は新興宗教など興味がないどころか、好感は上記の事もあり嫌悪して憚りない。けれども、宗教という存在の本質的な部分によく人々が言うようにセーフティーネットや精神の拠り所としての意味合いがある。宗教に頼るなど軟弱な精神だ!と罵る事は容易であるが、それが神や仏を言っていないだけで、企業や友人や思想など精神的拠り所や己の不安を払拭する為に何物かに寄りか家庭内人間がいるだろうか?そう考えるにつけ、僕が昨今している活動や思想というのはある意味の宗教としての側面が強いのではないかと考える様になった。そろそろ本題に入って行く。
 宗教を教祖や神のように捉えずに、心身両方のセーフティーネットと考えると僕が現在展開しているスペース運営やイベント、人と対話するという事は極めて宗教的である。僕が近頃、悩み悩んでシンプルに語弊の無い様に、また偏見で処分されにくく、一般的にも想像可能な言葉として行き着いたのが「コミュニケーション」と「衣食住」である。コミュニケーションが根底にあり、それを円滑化させる為のツールが衣食住である。
 僕は、一年以上まともに労働していない。半年前までは情けない話、父親からの仕送りが微額ながらあり、それ以降は友人、先輩後輩諸兄、女史、家族とあらゆる知り合いから金銭を借りまくり日々の糧としている。そして、僕はそういう情けない状況であるにも関わらず反省と自己嫌悪を痛いほど感じているけれども、遠慮する事無く、様々な言葉や行動であっけらかんとして生きているのだ。何故、あっけらかんと時には偉そうにと感じるような発言をし、貸している側からすれば傲慢不遜としか捉えられない様な誤解を生み易い生活態度、主義主張を行っているか。そこには自負と確信があるからである。それが無く、ただ怠惰の様に、生活破綻の様に見える事など出来るはずがない。僕は金銭や生活ではなく、信念に忠実なのである。
 かつての僧侶や神父、牧師、宗旨を問わずに宗教の使いは勿論腐敗や例外もあるだろうけれど、世間から見れば気違いじみた生活や人生を送ってきただろう。その最たる者達は物語や伝承として今でも美談として語り継がれている。
イエズス会のモンク達が海を渡って、侵略の意図だろうと何だろうと禁欲的に、そして無償の奉仕を持ってして、神の教えを説き、誠実に生き続ける姿は功利主義者からすればキチガイでしかないし、偉いねと思いながら「ケッ!偽善者が!」と悪態吐かずにはいれぬ位の後ろめたさを感じながら悪意を投げかけただろう。社会の為、生活の為、遊行や消費の為に働き、日々を送っている人間は決して間違っていない。多くの人間はそうでしか生きていけないだろう。けれども、そうでない人間もいる。それはただの堕落した、自分勝手な俗物としか映らないであろうけれど、僕にはしなければならない事がある。
 僕は、時間問わず日を問わず、余程の先約が無い限り、どんな人にでも会う様にしている。家や部屋で一人して憂鬱な人間がいつでも憂さ晴らしや鬱々とした孤独を晴れせはしなくても、紛らわせる様に24時間いつでも来れる環境を整えている。しかも、そこで金銭のやり取りなどは発生させていない。(原則として)そして、僕はただ相談や悩みを聞くだけでなく、ちゃんと対等な人間として時には罵倒し、時には批判否定し、それと共に共感と存在肯定を行っている。勿論、僕は娑場で生きる俗物である。肉食もすれば酒も食らい、女も抱く、修行や経典を熟読している訳でもない。そういう意味では現代の宗教家ではない。けれども僕は多くの孤独なアングリーヤングメン達と共にあるし、そいつ等に対してなるべく欺瞞は使わないようにそれこそ精神を擦り減らせながら向き合っている。勿論、それでも全ての人間と仲良くなれるわけではない。僕一人で全人類と繋がれるわけではない。だからこそ、僕はそういう存在同士が並列的に存在出来る教会の様な(教会や寺院の始まりはきっとこの様な機能として運用されていただろう。)場所を作り、運営している。僕や僕と似たような奴が苦手な人間でも、そいつと気が合う人間がいる可能性はあるのだ。
 別に、このような活動も精神も別に高邁だなんて思っていない。選ばれし者とも思ってはいない。普通の事だろう。困った人間がいれば、余裕のある者が助けという決して一方通行ではない相互扶助、金が無く腹が減っていてけどどこにも頼れない奴がいるなら、金がある奴が代わりに食わせて、また逆の時にそうすればいいのだ。こういう相互扶助など何も新しいものじゃない。当たり前として一定の人間では共有されていた事なのだ。それが唯我独尊、我が身だけが可愛い。けれども、弱った時にだけ支えてくれなどという傲慢不遜な人間を僕は軽蔑する。
 この様な活動は一種の宗教活動だろう。僕は神でも教祖でもなく、一人の使い人である。僧侶である。牧師である。神父である。その活動を誰にも笑わせない。否、笑ってもいい。真面目に日々を生きる勤勉なあなた達が救える人間達も必ずいるのだから、僕を笑って、誰かを助ければ良い。
そういう積み重なりを僕は宗教だと思っているのだ。

2012年10月2日火曜日

色欲という事

 僕は色欲が激しい。ここの所、より一層酷くなって来ている。否、酷いなんて思っていない。僕はその色欲に耽溺している。太宰を地で行くならば、どんな不幸も酒の肴程度に昇華して生きて行くしか無い。ブログだろうがtwitterだって現代では立派な文学だと僕は思っている。信じている。
男というのは誰しもそれ相応に色欲を持ち得ているだろう。勿論、その色欲が深い僕でさえ、それ以上の色欲の持ち主は伍萬とござろう。それを前提に僕は綴って行きたい。これは僕個人の話だ。何故、僕がここまで色欲に溺れ、深いか。やはり青年期の影響を否定は出来まい。僕は12歳〜18歳までを男子高校で過ごした。性の目覚めも、反抗の目覚めも、ロックの目覚めも、政治も全てそこで身に付け育んだ。皆さんが予想する以上に女性という存在は観念化されていった。それは思春期なのだから誰しもがそうだろう。しかし、そこにリアリティーは無かった。リアリティーはエロ本とAVと駅や街で擦れ違う表層部分だけの女性である。その中で僕達は七転八倒しながら、女子との交流を求めた。ここが多くの男子校生との違いではないだろうか。
 そして、僕達は中学生から女子校の女の子と触れ合った。合コンみたいなおままごとを飽く事無く繰り返した。けれど、精神的には別に彼女達と近づく事は無い。言ってしまえば「穴」にしか興味ないわけだ。僕達は徹底的にモテなかった。中学生の頃は個人的な拘りなんてものがそこまで強くないから支障はそこまで来さなかった。問題は高校生になってからだ。それこそオールドタイプの不良を標榜していた僕は、左翼思想、文学、淫売婦、博打、ロックミュージック、パンク、喫煙、飲酒、夜遊びに夢中になり、学校なんて馬鹿らしくなった。そして、精神は先鋭化し「女なんかに媚びてたまるか!」という潜在的に育まれた儒教精神、封建意識と革命思想が複雑に、天の邪鬼的に絡まり合った奇形に変容してしまったのだ。全ての悪に義があり、世間的な善を嫌悪した。その下地、僕にまつわる巨悪があるとすればここで完成したと言って憚りない。
 ここまで奇形化した人間性は立派に落伍者の末席に鎮座した。けれども、それと反比例する様に女性の陰は成りを潜める。そりゃそうだ。だって、カラオケに行ってJ-Popなんて唄った奴なんかに目くじら立てて批判の為のアジテーションをするのだからモテるはずがない。しかしながら、僕はまあ今と違ってその時は痩せていたし、目も鋭かった。なかなかの美少年といっても良い様な容姿だったから、そういう暗い陰鬱な空気を持った奇形児にも興味を持つ女は21世紀になって絶滅危惧種となったとはいえ存在していたのだ。セックスを覚えていから僕は一層先鋭化し、それに伴ってどんどん派手で見た目だけは特化した女性達とは疎遠になって行った。今考えればそりゃそうだ。そんな奴に近づく訳が無い。やたらと相手を攻撃して自尊心だけを肥大化したい時代遅れのダザイスト、パンクスだ。
 そういう10代を送り続け、僕の色欲は屈折して行く。「何故こんなに革新的、時代に先駆けた俺に女は振り向かないんだ!顔だってそこまで悪くないのに!」なんて考えれば考える程色欲は強くなり、その欲望を解消出来なくなればなるほど、考えは先鋭化されての悪循環だ。そして、様々な先鋭化と実践を繰り返し、それに伴って僕は気付けば25歳になってしまった。山田かまちやシド・ヴィシャスやイアン・カーティスはとっくに死んだ歳だ。パンクファッションも辞めて久しい。けれど、僕を育んだそれらの年齢と根底は変わらない。実践の中で大衆化させて行く為の軽薄さを身に付けて行っている。潔癖さの代わりに進んで俗物として肥え太っていっている心身共に!そして、その軽薄さが災いして来たのだろう。否、太宰的に言えば本格的に堕落し、汚らわしくなったから女性の影が出来て来たのだ。先述した様に色欲は同程度残り続け、軽薄さと器用さが合わさって、質が悪くなる。
 僕は女性というのは新大陸だと考えている。そして、僕はコロンブスである。寝床を共にする女子が多ければ多い程、それは新大陸を開拓したという事と同義語だろう。それらの行動は倫理観や道徳観に照らし合わせれば全く誉められた物ではない。その中で何を見つけ、何を失って行くだろう。失う事ばかりだ。どれだけ女性と遊ぼうが何も埋まる物じゃない。ただ、新大陸を発見したという瞬間的、反射神経的な喜びだけなのだ。そこにどれだけ快楽や体験があってもそれは宝物ではない。商業的に大陸を見つける冒険家よりも、僕はただ新発見だけを求める好奇心の冒険家だ。
しかし、これでは自分を美化しているだけだ。僕は経済力もない馬鹿野郎に他ならない。どれだけ周りの幸福を吸い上げ、搾取し、収奪して来たか。それを考えると僕は大嫌いな資本家そっくりなのである。しかも、物質ではなく精神を収奪し続けるクソな資本家だ。それでも僕の色欲は荒ぶり続ける。破滅か死か。どうやら欲望という物の先には幸福はなさそうだ。どう生き、どうやっても自由だと人は言う。けれど、それは自分の生活を担保出来てからだと耳障りな位に言われて来た。その当たり前に対してドンキホーキ的に突撃しようと思う。醜悪極まりない。