2012年9月19日水曜日

家という事

 昔から僕は集団という事象に拘りを持って来た。一つには、寂しがり屋というのが大きな原因だが、それにしても寂しがり屋では片付けられない人生を通しての拘りを持っているのである。みんなでいたいというよりは独りが嫌いなのだ。
 集団というものを考えてみると、その原点は多くの人の場合まず家庭である。孤児であっても、家庭的な集団が原初にあるはずだし、そこから人間形成が形作られて行く。意識的、無意識的に問わず家庭というものから人は始まり、ようは集団からどんな人も始まる訳だ。昨今、家庭の崩壊や家族制度の消滅が言われているが、勿論それは事実で有ろう。かく言う僕もその家庭だの家制度だのというものが自我の芽生えと共に煩わしくなり、積極的に反発、逃避、破壊を行って来た。しかし、僕は結局はそう言う意味ではオールドタイプなのである。近頃その急進性と反比例する様に家族制度というものへの郷愁と言ってしまえば元もこもないのだが、とにかく想いは募る。個人史的な話になれば、僕の親族は崩壊(別に仲が悪くなった訳ではない)したのだが、それは僕が家制度打倒の為に闘った革命の成果ではなく、単に経済的理由ではあるのだけど、とにかく生家が無くなり、僕の帰るべき場所は無くなった。何もそこまでじゃなくとも、多かれ少なかれ同世代(1985〜1994年生まれ)においては家制度というものは崩壊している事が多いのではないだろうか。
 勿論、家制度が壊れたなどというテーゼはもう何十年前から言われているだろうし、今始まった事でもなければ世代の空気を代弁する事柄ではない。しかし、例えば冠婚葬祭のマナーであるとか、生活単位でのまじないめいた伝統などに触れれる最後の世代ではないだろうかと日毎に思うのである。日本的な伝統や天下国家が保護しない、ようは歴史的に残らない市井の人々が形作っている民俗学に当てはまる営みの残滓が僕らの世代で終わろうとしている様に思えて仕方が無い。別にそれを殊更守りたいわけではないのだけど、口伝とまで言わずとも冷やかし程度に体験しておきたい、記憶していたいと思う。一種の昭和性のようなものが本格的に終わろうとしているのだ。その昭和性の終焉が昭和が終わって20数年経って終わろうとする事は、年号というものが馬鹿には出来ないのかもしれない。日本人的な感覚で、昭和が終わったから昭和性も終わる。なんてのは紋切り型の日本人観であるからつまらないが、紋切り型というのも馬鹿には出来ないのである。
 その伝統とも呼べない様な婆さんの知恵袋レベルの口伝、営み、民衆史の崩壊は、頼るべき存在の不在が大きいのではないだろうか。それこそ昔はそれを国家、時代が下って企業になってきた。家父長制の全盛は企業、いわば生業を生み出す存在の強固な時であって、企業神話が崩壊すれば自然と父性も死んで行くのである。しかし、家父長制が終わったからと言って、家父長制だって必要部分があったから出現して来たのであり、家父長制が担っていた部分を何かが担保しなければならないのである。それがある時は宗教であり、ある時は経済力であったりするのだが、どれも現時点においてはリアリティがあるとは思えない。何が担保するのだろう。
 僕はそれは集団であると考えている。疑似家族、それこそ家族ごっこではないかと考えている。僕がいるコミュニティーではそれが顕著であり、各々の性格に合わせて、状況に合わせて元来その個人が持ち合わせている特色に合わせてある者が父になり、ある者は母となり、ある者は兄弟になるのだ。非常に合理的ではあるが、非常に気持ち悪く移るものでもある。僕達は先述した様に昭和性の残滓を持ち得た人間ばかりだ。何なら家制度が未だ崩壊していないエラい環境の人間もまだまだいるであろうし、そんな事を感じない(また感じようとしない)愚鈍な人間も多いだろう。その家族ごっこの中に「身内ノリ」という罵倒を受ける根拠があるのではないだろうか。しかし、その気持ち悪さを感じている時点でその嫌悪感の中には羨望があると僕は考えている。何故なら全く想像出来ない事象の場合人は嫌悪感はさほど湧かないと思うからだ。
言葉には魔術がある。例え罵詈雑言であろうが、投げかけられる言葉の中には真理めいたものや、メタが潜んでいる事は珍しくない。そう考えると「身内」というのはそれこそ仲が深い人間同士を現す言葉である。家族ごっこというのは甚だ痛々しく僕は思うが、それすら昭和性の残滓であると思えばなかなかに面白いのではないだろうか。

2012年9月17日月曜日

無頼という事

 ここのところ無頼という事柄について考えさせられる事が多い。2012年において思想的に飲む打つ買う、浪費をするという事は流行どころか蛇蝎の如く蔑まれ虐げられる運命にある。曰く、無頼は死んだのである。しかし、無頼という概念が無意味か有効かはそれを実践する事でしか証明されないし、暴力も含めてここまで無菌状態、潔癖主義の隆盛は甚だ遺憾ではあるし、危険である。
この無菌状態、潔癖主義の隆盛を僕は「建て売り住宅の思想」と言っている。一軒家的な価値観がマイホームなり、マイカーに代表される様な高度経済成長時期の発想であり、その後の思想は均一化した一軒家、すなわち団地の思想である。そして、現代はその両方でもない建て売り住宅の思想の時代であると僕は考えている。建て売り住宅というのは個性的であるように見えて、実は判子を押した様に均一で等価であり、それは団地的な無個性の集合体とは意味が異なる。団地には失われた地域共同体の感覚が残っているが、ニュータウン、建て売り住宅街にそれはない。正に均一化と無菌的であり、その住宅内に於いてだけ数々の問題(メンヘル)が発生し、その問題は共有される共同体は喪失されている。そして、彼らは全ての感覚を奪われているのだ。失ったのではない。失われたのである。その建て売り住宅の思想に対して一気果敢にドンキホーテの如く挑むのが無頼である。無頼以外あり得ないだろう。
飲む打つ買うという無頼の基本的行動原則に於いて、それらの行動はこの管理、潔癖社会においては予測不可能、そしてリスクが大きな行動である。リスクというのは社会的保障や保全から隔絶されて行くのである。だからこそ、それらの行動を思想的に実行する伝統がこの日本には確立されている。(井原西鶴、近松門左衛門、源氏物語、春歌、狂歌の類いを見よ!)飲むは酒であるし、打つは博打である。買うは風俗へ行く事である。それらの安全圏の行動すらも忌避する若者層の形成を僕は嘆く、そして、それと逆行する様に僕はとことん無頼を貫く。借銭上等、貞操観念の崩壊万歳だ。それらを未経験の人間が、やれ太宰、やれボードレール、やれドストエフスキーetc!etc!!etc!!!笑止千万である。噴飯ものである。何故歴史に現れる数多の芸術家、詩人、音楽家、革命家、戯作者、文学者がそれらに耽溺し、愛したのか。そこを考えずして、彼らの精神に触れらない。決してそれらへの憧憬、愛だけでは同じ地平には行けない。まず一歩、そうたった一歩としての無頼ではないのか。
頼るもの無しと書いて無頼である。風俗に行くのも、酒を飲むのも、博打に興じるのもその瞬間、瞬間に頼るべきものは何もいないし、無いのだ。それでも、そんな孤独感を越えて求愛としての無頼もありえるだ。その無頼に対して、常識、世間体、既成概念を用いてどれだけの罵詈雑言が投げられるだろう。確かに、無頼ですら既に既成の、形骸化した考えだ。何も新しくない。いや、保守的ですらある。けれど、僕は無頼を愛す。最後の無頼として貫いてやろうと思う。関係を持った女が同空間に羅列され、それに嫌悪感を覚える君達は、その嫌悪感の奥底に潜む他者の私有に問題意識を持っているか?借金をしまくり、その頭を下げる情けない馬鹿に向ける優しさを笑えるのか。無頼は、偽善を肯定し、欺瞞を許さない。嘘を使って、真実を導き出す。七転八倒しながら!
ここまで書いて来て、僕は無頼を通して何を訴えたいのか。それはグローバリズム、個性飽和時代への叛意である。それの鎧である。決して武器にはならない。そういう物なんだ。無頼は誉められない。誉める?馬鹿馬鹿しい。そんな軽やかに肯定を言う奴等を僕(等)は信じない。博打で勝っても負けても何も産み出さない。恍惚と絶望だけである。それで稼いだ金なんて泡銭だ。全て君にあげてもいいのだ。私有の気持ちが沸き出さないのだ。酒を飲んでも憂鬱なんて晴れやしない。けれど、それでも飲んで人と話すのだ。話さなければ僕らは何も伝えられやしない。孤独を玩具に遊ぶ奴等なんてみんなクソだ。売春婦を抱いたって、その後の酒の席での戯言にしかならない。けれど、その戯言にこそみんなで笑いを共有出来るのじゃないか。
では、考えてみよう。無菌的な、潔癖的な、真面目で、誰からも文句言われないような奴等は。つまらないじゃないか。介入の余地が無い。結局のところ数百人の人々と二年間話しまくって確信を得た事は、不幸は蜜の味なのである。人は決して幸福なんかを楽しめやしない。何故落語にあれほど間抜けな抜け作が出て来るのか。何故失敗した人間の物語が判官贔屓として愛され続けるのか。そして、どうしようもない駄目な人間に希望を見出すのか。それは他者を貶めて安全圏にいたいからである。けれど、そう思う自分自身ですら貶められているのだ。この貶め合いを知らなければ大きな勘違い野郎になってしまう。貶め合う事こそが一番重要な均衡関係だ。僕は別に太宰の様に己を道化にして人を高みには置かない。俺もクソッタレだが、てめえらもクソッタレだ。
澄んだ心を持って若人よ生きるのだ。そこに汚物で塗れた両手を持って無頼を生きろ!

2012年9月15日土曜日

楽しむという事

 ここ最近、楽しむという事を思考や実践の基軸にし始めている。僕は「楽しむ」という事が大嫌いで仕方が無かった。「今が楽しけりゃ良いじゃん」だとか「難しい事言わずに楽しむ」なんてものは唾棄すべき対象であるし、今でも嫌悪感は持ち合わせているが、何故そこまで享楽的である事を拒否して来た人間が、楽しむ事こそが最高と考える様になったのか。それは色々な思考の変遷や実践の結果を受けての総括としてである。
現在の状況は言わずもがなクソったれである。一部の識者や文化人が警鐘を鳴らしているのではなく、老若男女に絶望感というか、ああこの社会も終わったなといった雰囲気が蔓延している事は偏ったデータだと強ち言えない。若者は考えを硬化しているし、老人達は勝ち逃げする用意を着々と進めている。
その現在の状況に拍車をかけたのは間違いなく東日本大震災であり、それに伴う原発問題では有ると思うが、問題はもっと複雑だ。社会問題や経済問題に限らず、精神衛生が世間で急激に悪化している。そりゃそうなっても仕方がない。だって、明るい未来を感じられないからだ。別にその未来を担保されるという事が現実的かどうかではなく、リアリティーが全く感じられないのだ。想像出来ないのだ。だからこそ、働いている社会人は気を病んでいるし、労働を積極的に行わない文化芸術の担い手すら同じく気を病んでいる。
これは大きな問題だ。この社会状況を僕は生まれてまもなくから憎んでいたし、嫌っていた。革命を望んでいた。その中において享楽的な「考えるのめんどくさいじゃん」的な発言や思考を僕は誰よりも憎んだ。
2012年においては「楽しみ」というものを享受している人間は、与えられ楽しみを享受している人々だ。クラブで踊りまくっている人々もそうだし、大学でサークルでワイワイしている人々、居酒屋で合コンしている人々etc!etc!!etc!!!そういう人々をはっきり言うと僕は心底大嫌いである。しかし、その嫌悪感は趣味的な違いや生理的なものであるはずがない。何故なら色々な楽しみがあるとはいえ、楽しみから遠ざかりたい人間は余程の捻くれ者かキチガイぶりたいメンヘラだけだろう。
言っておくが、明るい能天気な奴等は大嫌いだ。しかし、彼らが世間の空気を作っているのも事実であるし、その空気感が力や磁場を形成している。楽しむ事のイニシアチブを握る事が大きな力や磁場を形成するという事になる。そして、それは与えられた楽しみよりも、楽しみを設置、想像して行かなければならない。多くの楽しそうな人々は与えられるだけになっている。そして、与える側は言わずもがな体制である(国家や社会ではなくもっと漠然とした空気)これは大きな問題だ。
けれど、楽しみを自分達でクリエイトして行くという主張ではそこらのDIYや素人の乱的な文脈と大差が無い。もう一つの問題として、楽しみを創出して行こうというテーゼの下、動いている人間達が全く排他的な楽しみしか作り出していないという事だ。
例えば、これは僕が行っているFactory Kyotoというオルタナティブスペースにも言える事なので自戒を込めて言うが、文化系しか集まらない。否、大体似た様な雰囲気の奴等しか集まらないのだ。そこにギャルもDQNも土方もスポーツマンもあまり来ない。これも大きな問題である。同じ様な人間達が集まる事によって生み出すパワーはあるし、どちらかと言えば僕は少数精鋭主義なので、それで問題は無いのだけど、少数精鋭で規定してしまうと大衆的な広がりが難しくなってくる。そうなるとどんどん色々なものが観念的にしかなりえない。何故なら、あまり僕らは頭が良くないからだ。
その似た様な人間の中に先に上げた所謂文化系と対立軸、もしくは君たちが実際に目の前にしてしまうと少しイモってしまう様な人々、見た目だけを飾り立ててある意味で内面が空っぽに見える様な人々とこそ巻き込む余剰を作り出せなければいけない。何故なら、そういう人々が「楽しんでいる」からだ。僕の周りがそうなだけなのかもしれないけど、みんな欲望に素直ではなく、凄く精神的に繊細である。繊細と言っても生産的な事に転化出来る人は圧倒的に少ない。別に転化しなくても良いのだけど、人は何かに転化させようとするし、何ものかになろうとしたがる。これは文化系特有ではないだろうか。
ようは、社会的評価から逸脱、もしくは脱落した人間達は存在証明が極めて得にくい環境になっている。社会的評価軸では僕達は低収入、低学歴、流行に乗り遅れた変人という評価でしかない。だからこそ、鬱々とする素養があるのである。その評価軸を転換させたいのだけれど、その能力が唯我独尊で出来る人間はかなり限られているだろう。勿論、僕にもそんな天賦の才は持ち合わせてはいない。
ならば、このままいつかスターダムにのし上がるのを待って、何の欲望も満たせない(僕の場合だと、女!美食!スポーツカー!)状況に甘んじ続けるのか。僕は欲望が凄く大事だと考えている。欲望を否定、抑制するような考え方が現在の文化系、サブカルチャー野主流ではあるが、だからこそ余計に楽しみからどんどん置いて行かれるのだと思う。勿論、楽しみは人それぞれだけど、多くの人間の楽しみというものは大枠では同じではないだろうか?
 楽しむという事は普遍的である。だから、ここのところ僕はどうでも良い様な事ばかりを企画している。BBQだとか、花見だとか、なんなら冬は温泉旅行も考えている。そのどれも僕が思うにそれぞれの原風景として体験、経験、想像出来る事ではないかと考えているからだ。誰だって、BBQや花見は想像がつくだろう。それを大人数でワイワイ騒いでやるのは、多くの場合チャラサーみたいな奴等がやっている事が多いのではないだろうか?けれど、そいつ等の大人数での飲み会だって楽しいはずだ。その現場や写真をSNSで見て僕は嫌悪感を感じる。違和感ではなく嫌悪感である。嫌悪感は想像が付くからこそ、出てくる感情である。そして、僕の場合それは自分がその場に参画していない、もしくは参画出来ないから感じているのだ。ならば、自分が参画出来、また誰しもが想像を付く様な事柄を大人数で体験させる。共通体験ほど強い結び付きを生むものは無い。
楽しむという事柄を最重要課題に持ち出してくると、文化系の中で一種のトレンド化している反原発という問題にブチあたる。僕はあまり日常でも原発問題を会話に上げない。勿論、原発等問題外な代物であるし、僕は真っ赤なのでその辺は問題として震災以前より考えていた。けれど、現状として原発に興味が無い。ここが素人の乱的楽しみの創出と大きな違いが有る。僕は政治的な事を凄く考えている。そして、社会を変革、もしくは破壊したい。その中で現状として有効であり、欺瞞的でないやり方が「楽しむ」という事だと考えている。反原発運動が何十万人と集めていたとしても、問題はそれでは根本的解決出来ないのは明白だ。勿論、資本も電力会社も、大きな問題だが、もっと大きな問題として空気感、与えられるだけの楽しみにあると僕は考えている。デモや現状の反原発運動が有効ではないと僕は考えているが、やっている事には敬意を持っているし、デモも含めて社会的な発言の発信で状況を変えれるかどうかはやらない限りは結果も何も出ないのだからそれはそれで良いのである。
僕は社会を革命したい(こんな事を言うと坂口恭平みたいになっちまうが)だからこそ「楽しむ」という事に一番突破力と巻き込む力があるのではないかと現段階で導きだした。明日には変わっているかもしれないけれど