2012年9月15日土曜日

楽しむという事

 ここ最近、楽しむという事を思考や実践の基軸にし始めている。僕は「楽しむ」という事が大嫌いで仕方が無かった。「今が楽しけりゃ良いじゃん」だとか「難しい事言わずに楽しむ」なんてものは唾棄すべき対象であるし、今でも嫌悪感は持ち合わせているが、何故そこまで享楽的である事を拒否して来た人間が、楽しむ事こそが最高と考える様になったのか。それは色々な思考の変遷や実践の結果を受けての総括としてである。
現在の状況は言わずもがなクソったれである。一部の識者や文化人が警鐘を鳴らしているのではなく、老若男女に絶望感というか、ああこの社会も終わったなといった雰囲気が蔓延している事は偏ったデータだと強ち言えない。若者は考えを硬化しているし、老人達は勝ち逃げする用意を着々と進めている。
その現在の状況に拍車をかけたのは間違いなく東日本大震災であり、それに伴う原発問題では有ると思うが、問題はもっと複雑だ。社会問題や経済問題に限らず、精神衛生が世間で急激に悪化している。そりゃそうなっても仕方がない。だって、明るい未来を感じられないからだ。別にその未来を担保されるという事が現実的かどうかではなく、リアリティーが全く感じられないのだ。想像出来ないのだ。だからこそ、働いている社会人は気を病んでいるし、労働を積極的に行わない文化芸術の担い手すら同じく気を病んでいる。
これは大きな問題だ。この社会状況を僕は生まれてまもなくから憎んでいたし、嫌っていた。革命を望んでいた。その中において享楽的な「考えるのめんどくさいじゃん」的な発言や思考を僕は誰よりも憎んだ。
2012年においては「楽しみ」というものを享受している人間は、与えられ楽しみを享受している人々だ。クラブで踊りまくっている人々もそうだし、大学でサークルでワイワイしている人々、居酒屋で合コンしている人々etc!etc!!etc!!!そういう人々をはっきり言うと僕は心底大嫌いである。しかし、その嫌悪感は趣味的な違いや生理的なものであるはずがない。何故なら色々な楽しみがあるとはいえ、楽しみから遠ざかりたい人間は余程の捻くれ者かキチガイぶりたいメンヘラだけだろう。
言っておくが、明るい能天気な奴等は大嫌いだ。しかし、彼らが世間の空気を作っているのも事実であるし、その空気感が力や磁場を形成している。楽しむ事のイニシアチブを握る事が大きな力や磁場を形成するという事になる。そして、それは与えられた楽しみよりも、楽しみを設置、想像して行かなければならない。多くの楽しそうな人々は与えられるだけになっている。そして、与える側は言わずもがな体制である(国家や社会ではなくもっと漠然とした空気)これは大きな問題だ。
けれど、楽しみを自分達でクリエイトして行くという主張ではそこらのDIYや素人の乱的な文脈と大差が無い。もう一つの問題として、楽しみを創出して行こうというテーゼの下、動いている人間達が全く排他的な楽しみしか作り出していないという事だ。
例えば、これは僕が行っているFactory Kyotoというオルタナティブスペースにも言える事なので自戒を込めて言うが、文化系しか集まらない。否、大体似た様な雰囲気の奴等しか集まらないのだ。そこにギャルもDQNも土方もスポーツマンもあまり来ない。これも大きな問題である。同じ様な人間達が集まる事によって生み出すパワーはあるし、どちらかと言えば僕は少数精鋭主義なので、それで問題は無いのだけど、少数精鋭で規定してしまうと大衆的な広がりが難しくなってくる。そうなるとどんどん色々なものが観念的にしかなりえない。何故なら、あまり僕らは頭が良くないからだ。
その似た様な人間の中に先に上げた所謂文化系と対立軸、もしくは君たちが実際に目の前にしてしまうと少しイモってしまう様な人々、見た目だけを飾り立ててある意味で内面が空っぽに見える様な人々とこそ巻き込む余剰を作り出せなければいけない。何故なら、そういう人々が「楽しんでいる」からだ。僕の周りがそうなだけなのかもしれないけど、みんな欲望に素直ではなく、凄く精神的に繊細である。繊細と言っても生産的な事に転化出来る人は圧倒的に少ない。別に転化しなくても良いのだけど、人は何かに転化させようとするし、何ものかになろうとしたがる。これは文化系特有ではないだろうか。
ようは、社会的評価から逸脱、もしくは脱落した人間達は存在証明が極めて得にくい環境になっている。社会的評価軸では僕達は低収入、低学歴、流行に乗り遅れた変人という評価でしかない。だからこそ、鬱々とする素養があるのである。その評価軸を転換させたいのだけれど、その能力が唯我独尊で出来る人間はかなり限られているだろう。勿論、僕にもそんな天賦の才は持ち合わせてはいない。
ならば、このままいつかスターダムにのし上がるのを待って、何の欲望も満たせない(僕の場合だと、女!美食!スポーツカー!)状況に甘んじ続けるのか。僕は欲望が凄く大事だと考えている。欲望を否定、抑制するような考え方が現在の文化系、サブカルチャー野主流ではあるが、だからこそ余計に楽しみからどんどん置いて行かれるのだと思う。勿論、楽しみは人それぞれだけど、多くの人間の楽しみというものは大枠では同じではないだろうか?
 楽しむという事は普遍的である。だから、ここのところ僕はどうでも良い様な事ばかりを企画している。BBQだとか、花見だとか、なんなら冬は温泉旅行も考えている。そのどれも僕が思うにそれぞれの原風景として体験、経験、想像出来る事ではないかと考えているからだ。誰だって、BBQや花見は想像がつくだろう。それを大人数でワイワイ騒いでやるのは、多くの場合チャラサーみたいな奴等がやっている事が多いのではないだろうか?けれど、そいつ等の大人数での飲み会だって楽しいはずだ。その現場や写真をSNSで見て僕は嫌悪感を感じる。違和感ではなく嫌悪感である。嫌悪感は想像が付くからこそ、出てくる感情である。そして、僕の場合それは自分がその場に参画していない、もしくは参画出来ないから感じているのだ。ならば、自分が参画出来、また誰しもが想像を付く様な事柄を大人数で体験させる。共通体験ほど強い結び付きを生むものは無い。
楽しむという事柄を最重要課題に持ち出してくると、文化系の中で一種のトレンド化している反原発という問題にブチあたる。僕はあまり日常でも原発問題を会話に上げない。勿論、原発等問題外な代物であるし、僕は真っ赤なのでその辺は問題として震災以前より考えていた。けれど、現状として原発に興味が無い。ここが素人の乱的楽しみの創出と大きな違いが有る。僕は政治的な事を凄く考えている。そして、社会を変革、もしくは破壊したい。その中で現状として有効であり、欺瞞的でないやり方が「楽しむ」という事だと考えている。反原発運動が何十万人と集めていたとしても、問題はそれでは根本的解決出来ないのは明白だ。勿論、資本も電力会社も、大きな問題だが、もっと大きな問題として空気感、与えられるだけの楽しみにあると僕は考えている。デモや現状の反原発運動が有効ではないと僕は考えているが、やっている事には敬意を持っているし、デモも含めて社会的な発言の発信で状況を変えれるかどうかはやらない限りは結果も何も出ないのだからそれはそれで良いのである。
僕は社会を革命したい(こんな事を言うと坂口恭平みたいになっちまうが)だからこそ「楽しむ」という事に一番突破力と巻き込む力があるのではないかと現段階で導きだした。明日には変わっているかもしれないけれど

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