2012年9月17日月曜日

無頼という事

 ここのところ無頼という事柄について考えさせられる事が多い。2012年において思想的に飲む打つ買う、浪費をするという事は流行どころか蛇蝎の如く蔑まれ虐げられる運命にある。曰く、無頼は死んだのである。しかし、無頼という概念が無意味か有効かはそれを実践する事でしか証明されないし、暴力も含めてここまで無菌状態、潔癖主義の隆盛は甚だ遺憾ではあるし、危険である。
この無菌状態、潔癖主義の隆盛を僕は「建て売り住宅の思想」と言っている。一軒家的な価値観がマイホームなり、マイカーに代表される様な高度経済成長時期の発想であり、その後の思想は均一化した一軒家、すなわち団地の思想である。そして、現代はその両方でもない建て売り住宅の思想の時代であると僕は考えている。建て売り住宅というのは個性的であるように見えて、実は判子を押した様に均一で等価であり、それは団地的な無個性の集合体とは意味が異なる。団地には失われた地域共同体の感覚が残っているが、ニュータウン、建て売り住宅街にそれはない。正に均一化と無菌的であり、その住宅内に於いてだけ数々の問題(メンヘル)が発生し、その問題は共有される共同体は喪失されている。そして、彼らは全ての感覚を奪われているのだ。失ったのではない。失われたのである。その建て売り住宅の思想に対して一気果敢にドンキホーテの如く挑むのが無頼である。無頼以外あり得ないだろう。
飲む打つ買うという無頼の基本的行動原則に於いて、それらの行動はこの管理、潔癖社会においては予測不可能、そしてリスクが大きな行動である。リスクというのは社会的保障や保全から隔絶されて行くのである。だからこそ、それらの行動を思想的に実行する伝統がこの日本には確立されている。(井原西鶴、近松門左衛門、源氏物語、春歌、狂歌の類いを見よ!)飲むは酒であるし、打つは博打である。買うは風俗へ行く事である。それらの安全圏の行動すらも忌避する若者層の形成を僕は嘆く、そして、それと逆行する様に僕はとことん無頼を貫く。借銭上等、貞操観念の崩壊万歳だ。それらを未経験の人間が、やれ太宰、やれボードレール、やれドストエフスキーetc!etc!!etc!!!笑止千万である。噴飯ものである。何故歴史に現れる数多の芸術家、詩人、音楽家、革命家、戯作者、文学者がそれらに耽溺し、愛したのか。そこを考えずして、彼らの精神に触れらない。決してそれらへの憧憬、愛だけでは同じ地平には行けない。まず一歩、そうたった一歩としての無頼ではないのか。
頼るもの無しと書いて無頼である。風俗に行くのも、酒を飲むのも、博打に興じるのもその瞬間、瞬間に頼るべきものは何もいないし、無いのだ。それでも、そんな孤独感を越えて求愛としての無頼もありえるだ。その無頼に対して、常識、世間体、既成概念を用いてどれだけの罵詈雑言が投げられるだろう。確かに、無頼ですら既に既成の、形骸化した考えだ。何も新しくない。いや、保守的ですらある。けれど、僕は無頼を愛す。最後の無頼として貫いてやろうと思う。関係を持った女が同空間に羅列され、それに嫌悪感を覚える君達は、その嫌悪感の奥底に潜む他者の私有に問題意識を持っているか?借金をしまくり、その頭を下げる情けない馬鹿に向ける優しさを笑えるのか。無頼は、偽善を肯定し、欺瞞を許さない。嘘を使って、真実を導き出す。七転八倒しながら!
ここまで書いて来て、僕は無頼を通して何を訴えたいのか。それはグローバリズム、個性飽和時代への叛意である。それの鎧である。決して武器にはならない。そういう物なんだ。無頼は誉められない。誉める?馬鹿馬鹿しい。そんな軽やかに肯定を言う奴等を僕(等)は信じない。博打で勝っても負けても何も産み出さない。恍惚と絶望だけである。それで稼いだ金なんて泡銭だ。全て君にあげてもいいのだ。私有の気持ちが沸き出さないのだ。酒を飲んでも憂鬱なんて晴れやしない。けれど、それでも飲んで人と話すのだ。話さなければ僕らは何も伝えられやしない。孤独を玩具に遊ぶ奴等なんてみんなクソだ。売春婦を抱いたって、その後の酒の席での戯言にしかならない。けれど、その戯言にこそみんなで笑いを共有出来るのじゃないか。
では、考えてみよう。無菌的な、潔癖的な、真面目で、誰からも文句言われないような奴等は。つまらないじゃないか。介入の余地が無い。結局のところ数百人の人々と二年間話しまくって確信を得た事は、不幸は蜜の味なのである。人は決して幸福なんかを楽しめやしない。何故落語にあれほど間抜けな抜け作が出て来るのか。何故失敗した人間の物語が判官贔屓として愛され続けるのか。そして、どうしようもない駄目な人間に希望を見出すのか。それは他者を貶めて安全圏にいたいからである。けれど、そう思う自分自身ですら貶められているのだ。この貶め合いを知らなければ大きな勘違い野郎になってしまう。貶め合う事こそが一番重要な均衡関係だ。僕は別に太宰の様に己を道化にして人を高みには置かない。俺もクソッタレだが、てめえらもクソッタレだ。
澄んだ心を持って若人よ生きるのだ。そこに汚物で塗れた両手を持って無頼を生きろ!

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