2012年10月19日金曜日

宗教という事

 宗教の原初的体験は、僕にとって家族が入信していた新興宗教だ。神道と仏教、そしてシャーマニズムを混ぜた様な大変怪しい宗教で、その割には出雲にある日御碕神社とも関係が深く、名前も奈良日御碕神社という名称だった。それが宗教団体の正式名称であったかどうかは今となっては分からないが、とにかく、一通り神式、仏式の礼拝方法、玉串拝礼程度は覚えている。
 一等怪しいのはシャーマンの存在で、老婆が教祖的な存在だったのだが、その老婆の身体を借りて神の声を伝え、自営業の営業や人事、家族の進退(結婚相手や進学など)まで全て取り決める位の熱の上げようであり、20数年に渡ってその宗教団体に御布施した額は優に億を超えているとの事だ。
 普通の人ならそんな怪しい宗教に金も人生も賭けるのは常軌を逸していると映るだろうし、そういう家庭で育った僕自身常軌を逸していると物心付く頃には思っていた。けれども、幼少の頃は熱心に般若心経や御題目を熱心にあげ、神仏の存在を強烈に信じていた敬虔な幼児であった事は間違いない。その怪しい宗教に入れ揚げる事を馬鹿に出来ない文脈というものもあるのだ。詳しくは分からないのだが朝鮮人はイタコやシャーマニズムな土着的民間宗教を信仰しており、在日朝鮮人でもそれは変わらず、戦後も結構在日のコミュニティーではその様なイタコのおばあさんが駆け込み寺のような機能を果たしていたと色々な在日を題材にした小説や本、そして、親戚の話で聞いた事がある。なので、傍から見れば奇怪極まりない神の声を代弁するような宗教にも没入する下地は既にあったのである。これが僕の宗教的素養、体験である。
 僕は新興宗教など興味がないどころか、好感は上記の事もあり嫌悪して憚りない。けれども、宗教という存在の本質的な部分によく人々が言うようにセーフティーネットや精神の拠り所としての意味合いがある。宗教に頼るなど軟弱な精神だ!と罵る事は容易であるが、それが神や仏を言っていないだけで、企業や友人や思想など精神的拠り所や己の不安を払拭する為に何物かに寄りか家庭内人間がいるだろうか?そう考えるにつけ、僕が昨今している活動や思想というのはある意味の宗教としての側面が強いのではないかと考える様になった。そろそろ本題に入って行く。
 宗教を教祖や神のように捉えずに、心身両方のセーフティーネットと考えると僕が現在展開しているスペース運営やイベント、人と対話するという事は極めて宗教的である。僕が近頃、悩み悩んでシンプルに語弊の無い様に、また偏見で処分されにくく、一般的にも想像可能な言葉として行き着いたのが「コミュニケーション」と「衣食住」である。コミュニケーションが根底にあり、それを円滑化させる為のツールが衣食住である。
 僕は、一年以上まともに労働していない。半年前までは情けない話、父親からの仕送りが微額ながらあり、それ以降は友人、先輩後輩諸兄、女史、家族とあらゆる知り合いから金銭を借りまくり日々の糧としている。そして、僕はそういう情けない状況であるにも関わらず反省と自己嫌悪を痛いほど感じているけれども、遠慮する事無く、様々な言葉や行動であっけらかんとして生きているのだ。何故、あっけらかんと時には偉そうにと感じるような発言をし、貸している側からすれば傲慢不遜としか捉えられない様な誤解を生み易い生活態度、主義主張を行っているか。そこには自負と確信があるからである。それが無く、ただ怠惰の様に、生活破綻の様に見える事など出来るはずがない。僕は金銭や生活ではなく、信念に忠実なのである。
 かつての僧侶や神父、牧師、宗旨を問わずに宗教の使いは勿論腐敗や例外もあるだろうけれど、世間から見れば気違いじみた生活や人生を送ってきただろう。その最たる者達は物語や伝承として今でも美談として語り継がれている。
イエズス会のモンク達が海を渡って、侵略の意図だろうと何だろうと禁欲的に、そして無償の奉仕を持ってして、神の教えを説き、誠実に生き続ける姿は功利主義者からすればキチガイでしかないし、偉いねと思いながら「ケッ!偽善者が!」と悪態吐かずにはいれぬ位の後ろめたさを感じながら悪意を投げかけただろう。社会の為、生活の為、遊行や消費の為に働き、日々を送っている人間は決して間違っていない。多くの人間はそうでしか生きていけないだろう。けれども、そうでない人間もいる。それはただの堕落した、自分勝手な俗物としか映らないであろうけれど、僕にはしなければならない事がある。
 僕は、時間問わず日を問わず、余程の先約が無い限り、どんな人にでも会う様にしている。家や部屋で一人して憂鬱な人間がいつでも憂さ晴らしや鬱々とした孤独を晴れせはしなくても、紛らわせる様に24時間いつでも来れる環境を整えている。しかも、そこで金銭のやり取りなどは発生させていない。(原則として)そして、僕はただ相談や悩みを聞くだけでなく、ちゃんと対等な人間として時には罵倒し、時には批判否定し、それと共に共感と存在肯定を行っている。勿論、僕は娑場で生きる俗物である。肉食もすれば酒も食らい、女も抱く、修行や経典を熟読している訳でもない。そういう意味では現代の宗教家ではない。けれども僕は多くの孤独なアングリーヤングメン達と共にあるし、そいつ等に対してなるべく欺瞞は使わないようにそれこそ精神を擦り減らせながら向き合っている。勿論、それでも全ての人間と仲良くなれるわけではない。僕一人で全人類と繋がれるわけではない。だからこそ、僕はそういう存在同士が並列的に存在出来る教会の様な(教会や寺院の始まりはきっとこの様な機能として運用されていただろう。)場所を作り、運営している。僕や僕と似たような奴が苦手な人間でも、そいつと気が合う人間がいる可能性はあるのだ。
 別に、このような活動も精神も別に高邁だなんて思っていない。選ばれし者とも思ってはいない。普通の事だろう。困った人間がいれば、余裕のある者が助けという決して一方通行ではない相互扶助、金が無く腹が減っていてけどどこにも頼れない奴がいるなら、金がある奴が代わりに食わせて、また逆の時にそうすればいいのだ。こういう相互扶助など何も新しいものじゃない。当たり前として一定の人間では共有されていた事なのだ。それが唯我独尊、我が身だけが可愛い。けれども、弱った時にだけ支えてくれなどという傲慢不遜な人間を僕は軽蔑する。
 この様な活動は一種の宗教活動だろう。僕は神でも教祖でもなく、一人の使い人である。僧侶である。牧師である。神父である。その活動を誰にも笑わせない。否、笑ってもいい。真面目に日々を生きる勤勉なあなた達が救える人間達も必ずいるのだから、僕を笑って、誰かを助ければ良い。
そういう積み重なりを僕は宗教だと思っているのだ。

2012年10月2日火曜日

色欲という事

 僕は色欲が激しい。ここの所、より一層酷くなって来ている。否、酷いなんて思っていない。僕はその色欲に耽溺している。太宰を地で行くならば、どんな不幸も酒の肴程度に昇華して生きて行くしか無い。ブログだろうがtwitterだって現代では立派な文学だと僕は思っている。信じている。
男というのは誰しもそれ相応に色欲を持ち得ているだろう。勿論、その色欲が深い僕でさえ、それ以上の色欲の持ち主は伍萬とござろう。それを前提に僕は綴って行きたい。これは僕個人の話だ。何故、僕がここまで色欲に溺れ、深いか。やはり青年期の影響を否定は出来まい。僕は12歳〜18歳までを男子高校で過ごした。性の目覚めも、反抗の目覚めも、ロックの目覚めも、政治も全てそこで身に付け育んだ。皆さんが予想する以上に女性という存在は観念化されていった。それは思春期なのだから誰しもがそうだろう。しかし、そこにリアリティーは無かった。リアリティーはエロ本とAVと駅や街で擦れ違う表層部分だけの女性である。その中で僕達は七転八倒しながら、女子との交流を求めた。ここが多くの男子校生との違いではないだろうか。
 そして、僕達は中学生から女子校の女の子と触れ合った。合コンみたいなおままごとを飽く事無く繰り返した。けれど、精神的には別に彼女達と近づく事は無い。言ってしまえば「穴」にしか興味ないわけだ。僕達は徹底的にモテなかった。中学生の頃は個人的な拘りなんてものがそこまで強くないから支障はそこまで来さなかった。問題は高校生になってからだ。それこそオールドタイプの不良を標榜していた僕は、左翼思想、文学、淫売婦、博打、ロックミュージック、パンク、喫煙、飲酒、夜遊びに夢中になり、学校なんて馬鹿らしくなった。そして、精神は先鋭化し「女なんかに媚びてたまるか!」という潜在的に育まれた儒教精神、封建意識と革命思想が複雑に、天の邪鬼的に絡まり合った奇形に変容してしまったのだ。全ての悪に義があり、世間的な善を嫌悪した。その下地、僕にまつわる巨悪があるとすればここで完成したと言って憚りない。
 ここまで奇形化した人間性は立派に落伍者の末席に鎮座した。けれども、それと反比例する様に女性の陰は成りを潜める。そりゃそうだ。だって、カラオケに行ってJ-Popなんて唄った奴なんかに目くじら立てて批判の為のアジテーションをするのだからモテるはずがない。しかしながら、僕はまあ今と違ってその時は痩せていたし、目も鋭かった。なかなかの美少年といっても良い様な容姿だったから、そういう暗い陰鬱な空気を持った奇形児にも興味を持つ女は21世紀になって絶滅危惧種となったとはいえ存在していたのだ。セックスを覚えていから僕は一層先鋭化し、それに伴ってどんどん派手で見た目だけは特化した女性達とは疎遠になって行った。今考えればそりゃそうだ。そんな奴に近づく訳が無い。やたらと相手を攻撃して自尊心だけを肥大化したい時代遅れのダザイスト、パンクスだ。
 そういう10代を送り続け、僕の色欲は屈折して行く。「何故こんなに革新的、時代に先駆けた俺に女は振り向かないんだ!顔だってそこまで悪くないのに!」なんて考えれば考える程色欲は強くなり、その欲望を解消出来なくなればなるほど、考えは先鋭化されての悪循環だ。そして、様々な先鋭化と実践を繰り返し、それに伴って僕は気付けば25歳になってしまった。山田かまちやシド・ヴィシャスやイアン・カーティスはとっくに死んだ歳だ。パンクファッションも辞めて久しい。けれど、僕を育んだそれらの年齢と根底は変わらない。実践の中で大衆化させて行く為の軽薄さを身に付けて行っている。潔癖さの代わりに進んで俗物として肥え太っていっている心身共に!そして、その軽薄さが災いして来たのだろう。否、太宰的に言えば本格的に堕落し、汚らわしくなったから女性の影が出来て来たのだ。先述した様に色欲は同程度残り続け、軽薄さと器用さが合わさって、質が悪くなる。
 僕は女性というのは新大陸だと考えている。そして、僕はコロンブスである。寝床を共にする女子が多ければ多い程、それは新大陸を開拓したという事と同義語だろう。それらの行動は倫理観や道徳観に照らし合わせれば全く誉められた物ではない。その中で何を見つけ、何を失って行くだろう。失う事ばかりだ。どれだけ女性と遊ぼうが何も埋まる物じゃない。ただ、新大陸を発見したという瞬間的、反射神経的な喜びだけなのだ。そこにどれだけ快楽や体験があってもそれは宝物ではない。商業的に大陸を見つける冒険家よりも、僕はただ新発見だけを求める好奇心の冒険家だ。
しかし、これでは自分を美化しているだけだ。僕は経済力もない馬鹿野郎に他ならない。どれだけ周りの幸福を吸い上げ、搾取し、収奪して来たか。それを考えると僕は大嫌いな資本家そっくりなのである。しかも、物質ではなく精神を収奪し続けるクソな資本家だ。それでも僕の色欲は荒ぶり続ける。破滅か死か。どうやら欲望という物の先には幸福はなさそうだ。どう生き、どうやっても自由だと人は言う。けれど、それは自分の生活を担保出来てからだと耳障りな位に言われて来た。その当たり前に対してドンキホーキ的に突撃しようと思う。醜悪極まりない。

2012年9月19日水曜日

家という事

 昔から僕は集団という事象に拘りを持って来た。一つには、寂しがり屋というのが大きな原因だが、それにしても寂しがり屋では片付けられない人生を通しての拘りを持っているのである。みんなでいたいというよりは独りが嫌いなのだ。
 集団というものを考えてみると、その原点は多くの人の場合まず家庭である。孤児であっても、家庭的な集団が原初にあるはずだし、そこから人間形成が形作られて行く。意識的、無意識的に問わず家庭というものから人は始まり、ようは集団からどんな人も始まる訳だ。昨今、家庭の崩壊や家族制度の消滅が言われているが、勿論それは事実で有ろう。かく言う僕もその家庭だの家制度だのというものが自我の芽生えと共に煩わしくなり、積極的に反発、逃避、破壊を行って来た。しかし、僕は結局はそう言う意味ではオールドタイプなのである。近頃その急進性と反比例する様に家族制度というものへの郷愁と言ってしまえば元もこもないのだが、とにかく想いは募る。個人史的な話になれば、僕の親族は崩壊(別に仲が悪くなった訳ではない)したのだが、それは僕が家制度打倒の為に闘った革命の成果ではなく、単に経済的理由ではあるのだけど、とにかく生家が無くなり、僕の帰るべき場所は無くなった。何もそこまでじゃなくとも、多かれ少なかれ同世代(1985〜1994年生まれ)においては家制度というものは崩壊している事が多いのではないだろうか。
 勿論、家制度が壊れたなどというテーゼはもう何十年前から言われているだろうし、今始まった事でもなければ世代の空気を代弁する事柄ではない。しかし、例えば冠婚葬祭のマナーであるとか、生活単位でのまじないめいた伝統などに触れれる最後の世代ではないだろうかと日毎に思うのである。日本的な伝統や天下国家が保護しない、ようは歴史的に残らない市井の人々が形作っている民俗学に当てはまる営みの残滓が僕らの世代で終わろうとしている様に思えて仕方が無い。別にそれを殊更守りたいわけではないのだけど、口伝とまで言わずとも冷やかし程度に体験しておきたい、記憶していたいと思う。一種の昭和性のようなものが本格的に終わろうとしているのだ。その昭和性の終焉が昭和が終わって20数年経って終わろうとする事は、年号というものが馬鹿には出来ないのかもしれない。日本人的な感覚で、昭和が終わったから昭和性も終わる。なんてのは紋切り型の日本人観であるからつまらないが、紋切り型というのも馬鹿には出来ないのである。
 その伝統とも呼べない様な婆さんの知恵袋レベルの口伝、営み、民衆史の崩壊は、頼るべき存在の不在が大きいのではないだろうか。それこそ昔はそれを国家、時代が下って企業になってきた。家父長制の全盛は企業、いわば生業を生み出す存在の強固な時であって、企業神話が崩壊すれば自然と父性も死んで行くのである。しかし、家父長制が終わったからと言って、家父長制だって必要部分があったから出現して来たのであり、家父長制が担っていた部分を何かが担保しなければならないのである。それがある時は宗教であり、ある時は経済力であったりするのだが、どれも現時点においてはリアリティがあるとは思えない。何が担保するのだろう。
 僕はそれは集団であると考えている。疑似家族、それこそ家族ごっこではないかと考えている。僕がいるコミュニティーではそれが顕著であり、各々の性格に合わせて、状況に合わせて元来その個人が持ち合わせている特色に合わせてある者が父になり、ある者は母となり、ある者は兄弟になるのだ。非常に合理的ではあるが、非常に気持ち悪く移るものでもある。僕達は先述した様に昭和性の残滓を持ち得た人間ばかりだ。何なら家制度が未だ崩壊していないエラい環境の人間もまだまだいるであろうし、そんな事を感じない(また感じようとしない)愚鈍な人間も多いだろう。その家族ごっこの中に「身内ノリ」という罵倒を受ける根拠があるのではないだろうか。しかし、その気持ち悪さを感じている時点でその嫌悪感の中には羨望があると僕は考えている。何故なら全く想像出来ない事象の場合人は嫌悪感はさほど湧かないと思うからだ。
言葉には魔術がある。例え罵詈雑言であろうが、投げかけられる言葉の中には真理めいたものや、メタが潜んでいる事は珍しくない。そう考えると「身内」というのはそれこそ仲が深い人間同士を現す言葉である。家族ごっこというのは甚だ痛々しく僕は思うが、それすら昭和性の残滓であると思えばなかなかに面白いのではないだろうか。

2012年9月17日月曜日

無頼という事

 ここのところ無頼という事柄について考えさせられる事が多い。2012年において思想的に飲む打つ買う、浪費をするという事は流行どころか蛇蝎の如く蔑まれ虐げられる運命にある。曰く、無頼は死んだのである。しかし、無頼という概念が無意味か有効かはそれを実践する事でしか証明されないし、暴力も含めてここまで無菌状態、潔癖主義の隆盛は甚だ遺憾ではあるし、危険である。
この無菌状態、潔癖主義の隆盛を僕は「建て売り住宅の思想」と言っている。一軒家的な価値観がマイホームなり、マイカーに代表される様な高度経済成長時期の発想であり、その後の思想は均一化した一軒家、すなわち団地の思想である。そして、現代はその両方でもない建て売り住宅の思想の時代であると僕は考えている。建て売り住宅というのは個性的であるように見えて、実は判子を押した様に均一で等価であり、それは団地的な無個性の集合体とは意味が異なる。団地には失われた地域共同体の感覚が残っているが、ニュータウン、建て売り住宅街にそれはない。正に均一化と無菌的であり、その住宅内に於いてだけ数々の問題(メンヘル)が発生し、その問題は共有される共同体は喪失されている。そして、彼らは全ての感覚を奪われているのだ。失ったのではない。失われたのである。その建て売り住宅の思想に対して一気果敢にドンキホーテの如く挑むのが無頼である。無頼以外あり得ないだろう。
飲む打つ買うという無頼の基本的行動原則に於いて、それらの行動はこの管理、潔癖社会においては予測不可能、そしてリスクが大きな行動である。リスクというのは社会的保障や保全から隔絶されて行くのである。だからこそ、それらの行動を思想的に実行する伝統がこの日本には確立されている。(井原西鶴、近松門左衛門、源氏物語、春歌、狂歌の類いを見よ!)飲むは酒であるし、打つは博打である。買うは風俗へ行く事である。それらの安全圏の行動すらも忌避する若者層の形成を僕は嘆く、そして、それと逆行する様に僕はとことん無頼を貫く。借銭上等、貞操観念の崩壊万歳だ。それらを未経験の人間が、やれ太宰、やれボードレール、やれドストエフスキーetc!etc!!etc!!!笑止千万である。噴飯ものである。何故歴史に現れる数多の芸術家、詩人、音楽家、革命家、戯作者、文学者がそれらに耽溺し、愛したのか。そこを考えずして、彼らの精神に触れらない。決してそれらへの憧憬、愛だけでは同じ地平には行けない。まず一歩、そうたった一歩としての無頼ではないのか。
頼るもの無しと書いて無頼である。風俗に行くのも、酒を飲むのも、博打に興じるのもその瞬間、瞬間に頼るべきものは何もいないし、無いのだ。それでも、そんな孤独感を越えて求愛としての無頼もありえるだ。その無頼に対して、常識、世間体、既成概念を用いてどれだけの罵詈雑言が投げられるだろう。確かに、無頼ですら既に既成の、形骸化した考えだ。何も新しくない。いや、保守的ですらある。けれど、僕は無頼を愛す。最後の無頼として貫いてやろうと思う。関係を持った女が同空間に羅列され、それに嫌悪感を覚える君達は、その嫌悪感の奥底に潜む他者の私有に問題意識を持っているか?借金をしまくり、その頭を下げる情けない馬鹿に向ける優しさを笑えるのか。無頼は、偽善を肯定し、欺瞞を許さない。嘘を使って、真実を導き出す。七転八倒しながら!
ここまで書いて来て、僕は無頼を通して何を訴えたいのか。それはグローバリズム、個性飽和時代への叛意である。それの鎧である。決して武器にはならない。そういう物なんだ。無頼は誉められない。誉める?馬鹿馬鹿しい。そんな軽やかに肯定を言う奴等を僕(等)は信じない。博打で勝っても負けても何も産み出さない。恍惚と絶望だけである。それで稼いだ金なんて泡銭だ。全て君にあげてもいいのだ。私有の気持ちが沸き出さないのだ。酒を飲んでも憂鬱なんて晴れやしない。けれど、それでも飲んで人と話すのだ。話さなければ僕らは何も伝えられやしない。孤独を玩具に遊ぶ奴等なんてみんなクソだ。売春婦を抱いたって、その後の酒の席での戯言にしかならない。けれど、その戯言にこそみんなで笑いを共有出来るのじゃないか。
では、考えてみよう。無菌的な、潔癖的な、真面目で、誰からも文句言われないような奴等は。つまらないじゃないか。介入の余地が無い。結局のところ数百人の人々と二年間話しまくって確信を得た事は、不幸は蜜の味なのである。人は決して幸福なんかを楽しめやしない。何故落語にあれほど間抜けな抜け作が出て来るのか。何故失敗した人間の物語が判官贔屓として愛され続けるのか。そして、どうしようもない駄目な人間に希望を見出すのか。それは他者を貶めて安全圏にいたいからである。けれど、そう思う自分自身ですら貶められているのだ。この貶め合いを知らなければ大きな勘違い野郎になってしまう。貶め合う事こそが一番重要な均衡関係だ。僕は別に太宰の様に己を道化にして人を高みには置かない。俺もクソッタレだが、てめえらもクソッタレだ。
澄んだ心を持って若人よ生きるのだ。そこに汚物で塗れた両手を持って無頼を生きろ!

2012年9月15日土曜日

楽しむという事

 ここ最近、楽しむという事を思考や実践の基軸にし始めている。僕は「楽しむ」という事が大嫌いで仕方が無かった。「今が楽しけりゃ良いじゃん」だとか「難しい事言わずに楽しむ」なんてものは唾棄すべき対象であるし、今でも嫌悪感は持ち合わせているが、何故そこまで享楽的である事を拒否して来た人間が、楽しむ事こそが最高と考える様になったのか。それは色々な思考の変遷や実践の結果を受けての総括としてである。
現在の状況は言わずもがなクソったれである。一部の識者や文化人が警鐘を鳴らしているのではなく、老若男女に絶望感というか、ああこの社会も終わったなといった雰囲気が蔓延している事は偏ったデータだと強ち言えない。若者は考えを硬化しているし、老人達は勝ち逃げする用意を着々と進めている。
その現在の状況に拍車をかけたのは間違いなく東日本大震災であり、それに伴う原発問題では有ると思うが、問題はもっと複雑だ。社会問題や経済問題に限らず、精神衛生が世間で急激に悪化している。そりゃそうなっても仕方がない。だって、明るい未来を感じられないからだ。別にその未来を担保されるという事が現実的かどうかではなく、リアリティーが全く感じられないのだ。想像出来ないのだ。だからこそ、働いている社会人は気を病んでいるし、労働を積極的に行わない文化芸術の担い手すら同じく気を病んでいる。
これは大きな問題だ。この社会状況を僕は生まれてまもなくから憎んでいたし、嫌っていた。革命を望んでいた。その中において享楽的な「考えるのめんどくさいじゃん」的な発言や思考を僕は誰よりも憎んだ。
2012年においては「楽しみ」というものを享受している人間は、与えられ楽しみを享受している人々だ。クラブで踊りまくっている人々もそうだし、大学でサークルでワイワイしている人々、居酒屋で合コンしている人々etc!etc!!etc!!!そういう人々をはっきり言うと僕は心底大嫌いである。しかし、その嫌悪感は趣味的な違いや生理的なものであるはずがない。何故なら色々な楽しみがあるとはいえ、楽しみから遠ざかりたい人間は余程の捻くれ者かキチガイぶりたいメンヘラだけだろう。
言っておくが、明るい能天気な奴等は大嫌いだ。しかし、彼らが世間の空気を作っているのも事実であるし、その空気感が力や磁場を形成している。楽しむ事のイニシアチブを握る事が大きな力や磁場を形成するという事になる。そして、それは与えられた楽しみよりも、楽しみを設置、想像して行かなければならない。多くの楽しそうな人々は与えられるだけになっている。そして、与える側は言わずもがな体制である(国家や社会ではなくもっと漠然とした空気)これは大きな問題だ。
けれど、楽しみを自分達でクリエイトして行くという主張ではそこらのDIYや素人の乱的な文脈と大差が無い。もう一つの問題として、楽しみを創出して行こうというテーゼの下、動いている人間達が全く排他的な楽しみしか作り出していないという事だ。
例えば、これは僕が行っているFactory Kyotoというオルタナティブスペースにも言える事なので自戒を込めて言うが、文化系しか集まらない。否、大体似た様な雰囲気の奴等しか集まらないのだ。そこにギャルもDQNも土方もスポーツマンもあまり来ない。これも大きな問題である。同じ様な人間達が集まる事によって生み出すパワーはあるし、どちらかと言えば僕は少数精鋭主義なので、それで問題は無いのだけど、少数精鋭で規定してしまうと大衆的な広がりが難しくなってくる。そうなるとどんどん色々なものが観念的にしかなりえない。何故なら、あまり僕らは頭が良くないからだ。
その似た様な人間の中に先に上げた所謂文化系と対立軸、もしくは君たちが実際に目の前にしてしまうと少しイモってしまう様な人々、見た目だけを飾り立ててある意味で内面が空っぽに見える様な人々とこそ巻き込む余剰を作り出せなければいけない。何故なら、そういう人々が「楽しんでいる」からだ。僕の周りがそうなだけなのかもしれないけど、みんな欲望に素直ではなく、凄く精神的に繊細である。繊細と言っても生産的な事に転化出来る人は圧倒的に少ない。別に転化しなくても良いのだけど、人は何かに転化させようとするし、何ものかになろうとしたがる。これは文化系特有ではないだろうか。
ようは、社会的評価から逸脱、もしくは脱落した人間達は存在証明が極めて得にくい環境になっている。社会的評価軸では僕達は低収入、低学歴、流行に乗り遅れた変人という評価でしかない。だからこそ、鬱々とする素養があるのである。その評価軸を転換させたいのだけれど、その能力が唯我独尊で出来る人間はかなり限られているだろう。勿論、僕にもそんな天賦の才は持ち合わせてはいない。
ならば、このままいつかスターダムにのし上がるのを待って、何の欲望も満たせない(僕の場合だと、女!美食!スポーツカー!)状況に甘んじ続けるのか。僕は欲望が凄く大事だと考えている。欲望を否定、抑制するような考え方が現在の文化系、サブカルチャー野主流ではあるが、だからこそ余計に楽しみからどんどん置いて行かれるのだと思う。勿論、楽しみは人それぞれだけど、多くの人間の楽しみというものは大枠では同じではないだろうか?
 楽しむという事は普遍的である。だから、ここのところ僕はどうでも良い様な事ばかりを企画している。BBQだとか、花見だとか、なんなら冬は温泉旅行も考えている。そのどれも僕が思うにそれぞれの原風景として体験、経験、想像出来る事ではないかと考えているからだ。誰だって、BBQや花見は想像がつくだろう。それを大人数でワイワイ騒いでやるのは、多くの場合チャラサーみたいな奴等がやっている事が多いのではないだろうか?けれど、そいつ等の大人数での飲み会だって楽しいはずだ。その現場や写真をSNSで見て僕は嫌悪感を感じる。違和感ではなく嫌悪感である。嫌悪感は想像が付くからこそ、出てくる感情である。そして、僕の場合それは自分がその場に参画していない、もしくは参画出来ないから感じているのだ。ならば、自分が参画出来、また誰しもが想像を付く様な事柄を大人数で体験させる。共通体験ほど強い結び付きを生むものは無い。
楽しむという事柄を最重要課題に持ち出してくると、文化系の中で一種のトレンド化している反原発という問題にブチあたる。僕はあまり日常でも原発問題を会話に上げない。勿論、原発等問題外な代物であるし、僕は真っ赤なのでその辺は問題として震災以前より考えていた。けれど、現状として原発に興味が無い。ここが素人の乱的楽しみの創出と大きな違いが有る。僕は政治的な事を凄く考えている。そして、社会を変革、もしくは破壊したい。その中で現状として有効であり、欺瞞的でないやり方が「楽しむ」という事だと考えている。反原発運動が何十万人と集めていたとしても、問題はそれでは根本的解決出来ないのは明白だ。勿論、資本も電力会社も、大きな問題だが、もっと大きな問題として空気感、与えられるだけの楽しみにあると僕は考えている。デモや現状の反原発運動が有効ではないと僕は考えているが、やっている事には敬意を持っているし、デモも含めて社会的な発言の発信で状況を変えれるかどうかはやらない限りは結果も何も出ないのだからそれはそれで良いのである。
僕は社会を革命したい(こんな事を言うと坂口恭平みたいになっちまうが)だからこそ「楽しむ」という事に一番突破力と巻き込む力があるのではないかと現段階で導きだした。明日には変わっているかもしれないけれど